平野喜三さんの想い

昨日、ひこね母親大会で 「 ま〜おばちゃん 」 が 紙芝居で紹介した平野喜三さんについて、 詳しいことが分りました。

京都原告団帰国者 二 ・ 三世のホームページ 」 に 紹介されています。

同ホームページの 「 法廷の外 」 のページに 「元日本兵、償いの 『 語り部 』 …元残留孤児と二人三脚」 という 新聞記事が掲載されています。

日本兵、 償いの 「 語り部 」 …元残留孤児と二人三脚

 シベリアの日本人収容所を脱走、酷寒の大地を1人で走り抜け、終戦翌年、中国経由で帰還した元日本兵の男性がいる。

逃避行中の満州 ( 現中国東北部 ) での出来事が 〈 傷 〉 になっている。

残留孤児の日本人少女に出会い、 助けを求められたが、 置き去りにしてしまった。

贖罪 ( しょくざい ) の気持ちから 残留孤児の支援に打ち込んできた男性は 今夏、 日本語が堪能な元孤児の女性と一緒に、

シベリア抑留と 中国残留孤児 と いう 二つの戦争の悲劇を同時に訴える二人三脚の語り部活動を 始めた。

 大津市の元会社社長 ・ 平野喜三さん ( 84 ) 。

満州終戦を迎え、 旧ソ連軍の捕虜に。

1945年12月、 シベリア沿海地方のウォロシロフ ( 現ウスリースク ) 近くの収容所に送られた。

 氷点下40度の酷寒の中、 森林伐採の日々。

飢えと疲労で多くの死者が出た。

翌46年1月、 作業中に けが人が出た時の混乱に乗じ 脱走。

昼は物陰に隠れ、 夜 、星で方角を見て走った。

農家で盗んだ鶏を生で食べ、 凍ったジャガイモをかじった。

 4日後、 収容所から 約100キロ離れた地点で 国境を越え 中国へ。

ある集落で 中国人女性が 「 鬼の子たち 」 と 声をかけ、 残飯を地面にまくのを見た。

家畜小屋からはい出した4、5人の子供が 手で 口に運んだ。

日本人の孤児たちだった。

 翌日、 近くの畑で 同様の境遇の7歳の少女と 出会った。

終戦後の混乱の中で 家族とはぐれた、 という。

泣きながら 「 連れて行って 」 と 何度も頼まれたが、 子供連れで逃げ切れるとは 思えなかった。

追いすがる少女に 「 ついて来るな 」 と どなり、 走り去った。

 その後は 貨物列車の荷に隠れるなどして 、 ハルビン、 新京 ( 現長春 ) などを経由し、 46年8月、 引き揚げ船で帰国。

ヤミ市から身を起こし、 事業に成功した。

 ほかに方法がなかったとはいえ、 少女のことは いつも気がかりだった。

肉親を捜す孤児の写真が新聞に載ると、 食い入るように見つめた。

大津市で 永住帰国した孤児が暮らすようになると、 生活相談に乗るなど 支援を始めた。

 今年2月、 残留孤児が 国家賠償を求めた集団訴訟京都地裁で傍聴した。

原告団長の奥山イク子さん ( 72 ) ( 京都市 ) が 養父間を金銭で売買され、 各地を転々とした半生を訴える姿に あの時の少女が重なり、 涙が止まらなかった。

 同種の集団訴訟では 全国初と注目された 先月6日の大阪地裁判決で請求が 棄却された。

「 肉声を もっと社会に届けなければ 」 と 思い立ち、 先月13日、 奥山さんを誘って 滋賀県の県立高校で 2人で体験を語った。

 今月11日夜にも 大津市梅林の交流施設 「 PCC 」で 開かれる講演会 「 OTCマダン―戦争とは 」 ( 近江渡来人倶楽部主催 ) に 奥山さんと2人で 参加する。

 「 シベリアで 無念の死を遂げた戦友にも 涙を禁じ得ないが、 戦争の最大の罪は 何ら責任のない子供や女性を 巻き込んだことだ。

戦争では 必ず弱者が切り捨てられることを 忘れてはならない 」

 平野さんは 訴える。

     (2005年08月10日 読売新聞)

平野喜三さんは今年8月15日、90歳で亡くなりました。

平野さんの想いを後世に伝えていく仕事は、私たちが引き継いでいかなければなりません。