中嶌哲演住職のお話

昨日の 「 仏教徒平和 の つどい 」 で 明通寺(福井県小浜市) の 中嶌哲演住職は、

福井県原発問題の現状を詳しく分析した上で、びわ湖を放射能から守ろう と 訴えました。

その一部だけですが、紹介します。



大飯原発3・4号機の2基が1年間、トラブルなく正常に動いたとしても、

2基の炉内にたまる死の灰は、広島型原爆の2000発分に達します。

プルトニウムは、長崎型原発の60発分たまります。

大飯原発3・4号機の2基を運転すると、毎日毎日、

6発分の死の灰がたまっていくということを是非覚えておいてください。


京大の小出裕章助教の推定によれば、福島原発事故によって、

島型原爆100発分の死の灰が放出されました。

だからこそ、福島県だけでなく関東、首都圏まで高濃度に汚染された地点が出たのです。

太平洋に流れ出、風に乗って大気汚染は地球を一周しています。

これが 「 安全神話 」 崩壊の中味だということを忘れないでください。

だから、若狭原発が事故を起こせば、放射能が関西の皆様に襲い掛かるということを、

覚悟して頂かなければなりません。

これは、脅しではなく、福島の実例がそのことを示しているのではないでしょうか。


国策としての原発推進問題は、原発が立地する狭い自治体だけに封じ込まれ、

ありとあらゆる策動が行われ、現地に犠牲が強いられてきました。

原発の美味しい部分、原発がつくりだす電気だけを享受してきた圧倒的多数の国民の皆様には

国内植民地化された麻薬的な原発マネーの麻薬患者になりさがってしまった現地の実情は

ほとんど知られずにきてしまいました。


昨年8月末現在、国内54基の原発の中で、

放射線被曝を余儀なくされて働いてきた、被曝手帳を交付されて働いてきた労働者は48万人に達していると報じられています。

放射線は残念ながら目に見えません。

痛くも痒くもないし、五感で感じとれませんが、後になってから健康上の悪影響が出てきます。

しかも、遺伝子に猛烈な攻撃を与えます。

被爆者の方が 「 自分が被爆者である 」 ことを 公にしないのは、社会的な偏見、差別があるからです。

こういう陰湿、陰険な悪影響が 福島の被災者にも 受け継がれようとしている悲しい現実があります。

広島、長崎の原爆被爆者で生存しているのは 24万人、既に 亡くなった人を含めると 65万人 と言われています。

被爆者に、軍事利用、平和利用は、関係ありません。

同じ放射線量を浴びれば、同じ悪影響が出てきます。

原発被曝労働者の存在なくして、原発の運転はあり得なかったのです。

いまや、平和利用の原発の中で、新たな被爆者が50万人になろうとしている事を 知っていただきたいと思います。

死の灰の問題と、被曝労働者の存在は、仮に 原発の安全性が 100% 保障されたとしても、

子孫末代まで、短く見ても 10万年間、長く見れば 100万年間も、死の灰を管理しなければならないという 巨大な負の遺産を残していくことに繋がっています。


放射線被曝の陰湿な理由から、最も大きな影響が及ぶのは 子ども達です。

一般に 大人は1ミリシーベルト放射能を 浴びてはいけないと言われていますが、

子どもは 数倍か 10倍 浴びたのと同じ影響が出るというのが 放射線被曝の特質です。

太平洋戦争の末期、子ども達を空襲から守るために、集団学童疎開させました。

あの軍国主義政権でも、そうしました。

今の政権は、何ですか。

20ミリシーベルトまで 被曝が許されるという 御用学者の口実のもとに、

未だに 放射線にさらしている状態です。

子ども達を 如何 に守っていくかは、 かつての 集団学童疎開を 参考にしながら

日本国民が 真剣に 考えなければならないと 思います。


びわ湖に放射能汚染された黒い雨が降ることだけを心配しがちですが、

福島事故の教訓に照らせば、周りの山林が汚染されると 困ったことになります。

びわ湖は 多くの水源を 持っています。

びわ湖が直接汚染されなくても、若狭に近い山林が 汚染されれば、びわ湖は汚染されます。


福井県では今、麻薬的な 「 原発マネー 」 の 末期患者 が 禁断症状を 呈しています。

大飯原発3・4号の再稼動にOKした 大飯町長 や 福井県知事のありようというのは、

そうとしか言いようがない情けない状態です。

それに対し、福井県民がどう対処するかということが 問われています。

日常的には、住民・市民・国民の運動で、立法・行政・司法 に どう反映させていくかということですが、

目前の具体的な問題としては、 総選挙があります。

もっともらしい目先の約束だけで、当選すれば すぐひっくり返すような議員や政党に対して、

私たちは、よくよく見極めた上で、何が本物かを 見極めながら、投票行動を行う必要があります。