反戦運動に命をかけた 「久木興治郎」 さんをしのぶ
治安維持法による弾圧が吹き荒れていた暗黒の日本で、兵士に反戦を訴えた久木興治郎さん。
7月24日は、その久木興治郎さんの命日です。
今日、午前10時から、興次郎さんが生れた彦根市太堂町の浄称寺で、「久木興次郎さんをしのぶ集い」 が開かれました。
ご遺族をはじめ、故人をしのぶ人たち19人が参加、興次郎さん紹介のDVDを観た後、法要が営まれました。
年金者組合員10人も参加しました。
久木興治郎さんは、1908年8月2日、犬上郡亀山村太堂 (現 彦根市太堂町) に生まれ、愛知郡愛知川町に移住。
県立八日市中学校を経て、1925年 大阪外国語学校 (現 大阪大学外国語学部)に入学。
1926年 大阪外国語学校放校。
1927年 兵士向けの反戦ビラや『兵卒新聞』を発行。
1928年 3・15事件で検挙され、1929年 懲役5年の判決を受けました。
非転向をつらぬき、19歳から25歳までの青春を獄中で耐えたのです。
1934年3月、滋賀刑務所を出獄。
郷里の愛知川町で療養した後、1935年10月大阪に出ましたが、特高につきまとわれ、仕事と部屋探しに苦労したそうです。
1937年7月24日 大川 (淀川の支流) で遊泳中、水死しました。
享年29歳でした。
法要の後、昼食をとりながら懇談に移りました。
参加者からは、「この彦根からこんな凄い人が出ていたとは知らなかった」 という驚きと共に、
反戦を口にしただけで特高に捕らえられ虐殺された時代に、兵士向けの反戦ビラを印刷し配布した興次郎さんの偉大な功績を称える声が多く出されました。
さらに、興次郎さんの遺志を受け継ぎ、反戦平和のために頑張らなければとの決意も語られていました。